
評価: 9点
Story
「ピーピロリロリロ。地球での極秘任務完了。宇宙へ帰還します!」 平成のある田舎町 内気で“普通”であることに悩む少年・翼は、 小学三年生の春、クラスの人気者で“特別”な存在の暁太郎と出会い、親友になる 二人だけの遊び、意味のない会話、夕暮れの帰り道- 世界は確かに、彼らのものだった しかしある日を境に、暁太郎はクラスの中で浮いた存在となり、噂や視線が彼を囲んでいく やがて起こる、取り返しのつかない事件 「もしもさ、俺が宇宙人だったらどうする?」 これは二人の青春物語なのか それとも消したい記憶なのか 30年にわたる友情を描いた、かぎりなく青い旅立ちの物語- Filmarksより
長編アニメーション映画『我々は宇宙人』本予告第79回カンヌ国際映画祭 監督週間部門 正式出品映画『我々は宇宙人』2026年9月25日劇場公開。藤本タツキ氏(『チェンソーマン』『ルックバック』漫画家)のコメント全文「我々は宇宙人、試写で見せてもらった後からずっと嫉妬しています。物語の詳…more
Review
思わず逃げ出したくなるくらいに、居たたまれなさと、居心地の悪さを感じ続けた。
そこに明確な“恐怖”や“不条理”が映し出されているわけではない。
そこに映し出されていたものは、おそらくすべての“元こども”が、自分自身の心と記憶に刻み込んでいた、ありふれた光景であり、日常だった。
脳裏の奥深くに、無意識の“美化”と共に仕舞い込まれていたその光景が、特異なアニメーション表現により、残酷なまでの生々しさと、リアルな温度感で蘇ってくる。
まるで心と記憶を直接ガリガリと掻きむしられる感覚を、ほぼ強制的に与えられているようだった──。
無論、私もかつては小学生だった。
44歳になった今となっては、“6年”という時間は大袈裟ではなく瞬く間に過ぎ去ってしまうけれど、子どもの頃の6年間、特に小学校の6年間という時間は、今振り返ってみても、無限で、果てしなかった。
当時の記憶や出来事をつぶさに覚えているわけではない。それでも、集団の中で勉強をし、運動をし、ありとあらゆる人間関係そのものを問答無用に知り続けなければならないあの6年間の情報量の膨大さは、とうに大人になってしまった今になって振り返ると、「異常」と言えるものだった。
きっと、当時のことを細かく覚えていないのは、その過去の情報量に、今の自分が押し潰されないための防衛本能なのではないかとすら思える。
つまるところ、そんな異常な情報量(と感情量)の中で日々過ごし、文字通り喜怒哀楽渦巻く生活を繰り返す小学生たちは、我々大人からすれば、もはや異次元の存在であり、言ってしまえば、おしなべて「宇宙人」と呼べる対象なのかもしれない。
私自身、小学6年生の息子がいて、毎日面と向かって話しているけれど、彼が実際に日々どんな日常を過ごし、どんな感情で、どのように私たち家族も含めた人間や物事を見ているのかなんて、分かっているようで、全然分かっていない。
そして、それは小学生の子どもたち同士においても同じなのだろう。
何も知らない状態から、日々あらゆる情報と感情を知っていく中で、彼らが見ているもの、そして見えていないものは、常にぐわんぐわんと駆け巡り、戸惑いや、恐れや、不安を伴った突飛な空想へと転じていく──
なぜこいつはこんなことをしているのだろう?
なぜこいつはこんなことを言っているのだろう?
なぜこいつはこんな目で見てくるのだろう?
まるっきり理解できない他者の言動に対して、小学生なりに懸命に“答え”を見出そうとする。でも、稚拙な解釈は堂々巡りの末に、また畏怖と疑心を深めていく。
決して小学生に限ったことではなく、すべての人間は、自分が理解できないものに対して恐怖を感じるものだろう。そして、ときにそれは、過剰に攻撃的な自己防衛へと転じる。
無知と幼さゆえの“残酷なすれ違い”は、純粋な人間関係をいとも簡単に壊し、代わりに小さなヒエラルキーを生み出す。そして、その「発端」が、当人たちのその後の人生にまで影を落としてしまうこともある。
非常にセンシティブなストーリーテリングであり、主人公たちを通じた極めてナイーブな映画世界は、良くも悪くも鑑賞者の深層心理に土足で踏み込んでくるようだった。
映画内で映し出されている事象を目の当たりにして、拭い去れない拒否感や、この作品そのものに対する否定的な感情を拭い去ることができない人も多いだろうことは想像できる。
ただし、その一方で、この映画世界は終始一貫して、“別次元”からの俯瞰的な視点によって支配され、緻密にコントロールされていたようにも感じる。“別次元”とは即ち本作を生み出した若きクリエイターの“神視点”と言い換えてもいいだろう。
本作が創作物である以上、クリエイティビティの本質を踏まえても、それは当然なことだろう。
けれど、本作を彩るアニメーション描写のすべては、緻密に計算されて積み重ねられ、主人公たちの感情の交錯や、衝突、脱線、そして再度の交錯までもが、まさに神のような高次元の存在によって、作為的に創出されているように感じた。
ランドセルに入れた謝罪の手紙(手裏剣)を見つけさせず、代わりに大切なシールを盗まれたように思わせたことも。靴箱で初恋相手が見せた行為を、自分へのラブレター(偽物)を入れたように錯覚させたことも。すべてを俯瞰している意地悪な神が、残酷な細工を施し、その後の人間たちの顛末を観察しているような感覚を覚えた。
この俯瞰的な視点、そして作為的な設計があるからこそ、本作は、居たたまれなさや居心地の悪さに覆い尽くされながらも、感情的な嫌悪感や拒否感に引きずり込まれていないのだとも思える。
「ワレワレハウチュウジンダ」というフレーズは、古くから宇宙人登場時の常套句として用いられているけれど、よく考えれば、これはとっても変な言い回しである。
実際に遠く離れた星々からやってきた宇宙人が、自分自身を指して「ウチュウジンダ」と名乗るわけがない。つまり、このフレーズそのものが、人間(地球人)が宇宙人という“他者”を、無理解のまま捉え、空想して生み出したものであることが分かる。
相手がどのような存在かを正しく理解しないまま、自分が持ち得ている知識や視座のみで、その「正体」を勝手に思い描く。
それは決して理解ではなく、“レッテル”を貼り付けていただけだった。
「我々は宇宙人」と銘打たれた本作の映画世界は、そういった人間の無理解と、それに伴う恐れや愚かさや滑稽さを、主人公たちの友情とその崩壊を通じて、容赦なく描きつけていた。
本作のストーリーテリングは、一見、“翼”と“暁太郎”という二人の主人公の主観によって直情的に描かれているようにも見える。
けれど、両者を等しく対比し、俯瞰して見せることで、行き過ぎた悲壮感や悲劇に陥ることを回避しているのだと思う。
それを決定づけているのが、あのラストシーンだろう。
もう関わることすらないと思われていた二人が、またもや神のいたずらにより、一瞬の、本当に僅かな交錯を迎える。
そこで放たれた、かつての他愛もない“別れの挨拶”──
咆哮のような「じゃーねー!」の繰り返し。その先の道程で、翼と暁太郎が、再びかつての親友同士に戻る、なんてことはないだろう。
また、彼らが経た後悔、失われた時間が戻ってくるわけでもない。
ただ、彼らはようやく、“友だち”としてちゃんと別れることができた。
それがもたらした魂の解放に、私は言葉を失った。
今日も(まさにこのレビューを書いている今も)、息子の友だちが2〜3人我が家に遊びに来ていて、ワーワーと奇声を上げながら遊んでいる。
喜色満面で、心から楽しそうに遊んでいるけれど、きっと今この瞬間にも、彼らにしか得られない感情が渦巻いているのだろう。
そう考えると、親としては少しゾッとしてしまうけれど、すべてひっくるめて子どもたちが歩むべきプロセスなんだろうと思う。
翼と暁太郎、そして息子たち、彼らと同じように、私自身もまた「宇宙人」だったことを顧みる。
そんなことを考えながら、「じゃーねー」と友だちを見送る息子の背中を見つめた。
Information
| タイトル | 我々は宇宙人 WE ARE ALIENS |
| 製作年 | 2026年 |
| 製作国 | 日本 |
| 監督 | 門脇康平 |
| 脚本 | 門脇康平 |
| 作画監督 | 門脇康平 |
| 声の出演 | 坂東龍汰 |
| 岡山天音 | |
| 槙木悠人 | |
| 中込佑玖 | |
| 鈴木咲 | |
| 松井ケムリ | |
| 佐野岳 | |
| 大関れいか | |
| 佐々木ありさ | |
| エド・はるみ | |
| 末永陽 | |
| 鑑賞環境 | |
| 評価 | |
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