終幕。茫然自失。とりあえず、ペットボトルの水を喉に流し込んだ。
“潤い”を感じるのに一寸の時間を要した。
渇き切ったのは、喉か、心か。
善し悪しを判別する前に、”とんでもない”映画であることは確かだと思えた。
「劇薬エンターテイメント」というキャッチが示す通り、この映画は「猛毒」以外の何ものでもない。
映し出されたものは、絶望、絶望、そして絶望。
はっきり言ってそれ以外の要素は見出せず、クラクラする。
誰がどう拒否感を示し酷評しようとも、それを論破する論理は見当たらない。
「吐き気がする」と言われれば、「まったくその通りだね」と言う他ない。
しかし、だ。
己の理性が拒否し、目を背けたくなる描写が羅列される程に、自分の中で染み出すように生じている「高揚感」を感じ、身動きが取れなくなった。
体のあちらこちらの血圧が高まり、紛れもない「興奮」を覚えている自分自身を呪いたくなった。
その理由は明確だ。映画の中の誰でもなく、僕自身が“加奈子”という【悪魔】に魅了されてしまっていたのだ。
こつ然と消えた己の娘・加奈子を探し求める主人公。
演じる役所広司の脂ぎった表情が、娘の悪魔性が明らかになるにつれ油分どころか水分さえも消え失せ、渇いていく。
父親は娘の生存を終始望むが、その「理由」と「目的」は絶望と共に変わっていく。
この映画を拒否する人を否定するための論理が見出せないのは、この映画そのものに論理など存在しないからだ。
即ち、悪魔が悪魔であることに理由など無い。
言い換えれば、悪魔が悪魔であることに罪悪など生じる筈も無い。
“それ”が、娘であろうと、恋人であろうと、友人であろうと、教え子であろうと、出会ってしまった以上、憎むべきものは魅了された己自身と人生そのものだ。
この映画は、そういった嫌悪感も、おぞましさも、吐き気すらも“エンターテイメント”として悦楽に浸るべき作品なのだろうと思う。
そう捉えると、最も近しい映画として脳裏に浮かんだ映画は「オーメン」だった。
「オーメン」があの気味が悪い子役を見つけ出したことと同様に、今作も“加奈子”を体現し切った見知らぬ新人女優を見つけた時点で、映画としては勝っている。
それくらいデビュー作にして強烈過ぎる印象を放った小松菜奈の発掘は奇跡的なことだったと言えよう。
その“奇跡”を毒々しい色彩で彩った豪華キャストのパフォーマンスも、鬼才監督の創造性も、総じてパーフェクトだった。
拒否に対して決して擁護は出来ないし、心から薦めることも出来やしない。
ただし、コレがとんでもないものであることは間違いないし、ならば唯一無二の映画であることも否定しようがない。
この正真正銘クソッタレな映画に狂わずにはいられない。
「渇き。」
2014年【日】
鑑賞環境:映画館
評価:10点
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