神々しくそびえ立つ巨躯。体の髄にまで響き渡る咆哮。
満を持してスクリーンに甦ったそれは、まさに「怪獣の王」と呼ぶに相応しく、その存在感は圧倒的だった。
この極めて完成度の高い映画が、映画史上最高クラスの「怪獣映画」であることは、間違いないと思う。
日本が誇る「怪獣」と「特撮」を、ハリウッドの最前線の精鋭である映画人たちが、多大な“リスペクト”をもって甦らせてくれたことに、先ず感謝したい。
「怪獣映画」として、絶賛は惜しまない。
しかし、絶賛の上で、ただ言いたい。
これは……、「ゴジラ映画」ではない。
少なくとも、「僕が愛したゴジラ映画」とは、とてもじゃないが言い難い。
最大の違和感は、ゴジラが「何もの」であるかということに対する認識のズレだろう。
今作では、絶対的な存在感を誇るゴジラが、その存在感のまま神格化され、文字通りの地球の「守護神」として描き出されている。
この映画単体においてみれば、ストーリー的な違和感はない。
しかし、これが「ゴジラ映画」というのならば、その描かれ方は致命的な欠陥と言わざるを得ない。
ゴジラという怪獣は、“核の化身”でなければならない。
他の怪獣がどうであろうとも、ゴジラだけは決して“古代生物”などであってはならない。
人類自身が生み出してしまった災厄である「核」。その「権化」でなければならないと思う。
ゴジラはいくらその姿が強烈な畏怖の対象であり神々しくあろうとも、決して神格的なものなどではないし、あってはならない。
なぜならば、ゴジラは人類の「業」そのものであり、愚かな人類にとっての合わせ鏡の如き存在でなけらばならないからだ。
だからこそ、人類は圧倒的な力の差を見せつけられようとも、強大なゴジラに立ち向かい続けなければならない。
だからこそ、時に己の身を賭してでも、ゴジラ(=人類)の暴走を止めなければならない。
「ゴジラ映画」におけるスペクタクルとは、圧倒的で悲劇的な「破壊」と、その破壊を生み出してしまった人類が自戒を礎にし、己に打ち勝とうとする様にこそ生まれるべきだと思うのだ。
それこそが、“戦争”と“核”、そして自らの“驕り”によって一度叩き潰された国が、再び進み出すために生み出した“エンターテイメント”だったと思う。
だから、そういう「精神」が根本的に欠けていたこの映画は、少なくとも僕にとっては、「ゴジラ映画」とは言い難い。
過去の幾度もの水爆実験が「ゴジラを倒すためのものだった」という設定や、爆弾処理班という主人公の設定を生かし切らないまま、“メガトン級”の核爆弾を結局地球上で爆発させてしまうなんて展開は、「核」そのものの恐ろしさに対する「軽視」以外の何ものでもなく、眉をひそめずにはいられなかった。
昨年公開の「パシフィック・リム」のように何のしがらみも無い怪獣映画であれば、もっとシンプルに楽しめたのかもしれないが、今作の場合はそういうわけにはいかなかった。
ただし、繰り返すが、この映画における「怪獣」の描写、そして日本の「特撮」を存分に意識して作ってくれた画づくりは本当に素晴らしい。
監督をはじめとする製作陣は、きっと「ゴジラ」の全シリーズをつぶさに観直して製作に至ったのだろうと思う。
そしておそらくは、他の東宝特撮映画はもちろん、ライバル作品の“ガメラ”まで観尽くしてくれたのだろう。
そうして、その中から彼らが好んだ数々の要素”をピックアップし、詰め込んでくれたのだろう。
そんな彼らの崇高で愛すべき映画づくりを一方的に否定など出来るわけがないし、それが彼らにとっての“ゴジラ”であるならば、それは尊重されるべきだとも思う。
他にも言いたいこと、語り尽くしたいことは枚挙にいとまがない。
けれどひとまずは、青白く輝く背びれの光と共に突如として放出された“最高の高揚感”を思い出しつつ、「再上陸」を心待ちにしたい。
「GODZILLA ゴジラ」
2014年【米・日】
鑑賞環境:映画館(IMAX3D・字幕)
評価:7点
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