運命の投票が行われている議会の喧騒をよそに、“彼”は我が子を懐に抱え一緒に昆虫図鑑を読んでいる。
端から見ると、気が気でない心情を紛らわしているようにも見えるけれど、きっとその時彼は、本当に息子と図鑑の中の虫たちのことしか頭になかったと思う。
常に自分の目の前に置かれた物事にひたすらに集中し、心血を注ぎ続けた人。
エイブラハム・リンカーンとは、たぶんそういう人だったのだろう。
「偉人」と称される数多の人物の中で、リンカーンほど、世界中にその名を知られる人物はいないと思う。
肖像を見ればすぐにそれが彼だと分かるだろうし、「奴隷解放を成したアメリカ合衆国の偉大な大統領」と誰もが答えられるだろう。
ただし、僕自身も含め、大多数の人が彼について“それ以上”のことをよく知らないというのが実情ではないかと思う。
リンカーンという人が一体どういう人で、実際に何をした人なのか。
それをスピルバーグが描く、その意外性も含め、関心度は極めて高かった。
自分の無知を恥じるが、この映画を観て何よりも驚いたのは、「奴隷制度の撤廃」が成された最大の要因は、リンカーンが「奴隷解放宣言」をしたからでもなければ、南北戦争において彼率いる北軍が勝利したからでもないということ。
奴隷制度を絶対的な「違法」と定める合衆国憲法修正第13条が、可決成立されたからに他ならないということを知り、まず愕然とした。
英雄的な大統領が「解放宣言」をしても、内戦において自由を謳う北軍が優勢に戦局を進めていても、憲法が改正されなければ、奴隷制度の完全撤廃には至らなかったであろう事実。
そして、この映画は、確実に憲法改正を成さなければ、人種差別の根本は民衆の中で消え去る事無く、しぶとく残り続けるだろうことを見抜き、何としてでも憲法改正を推し進めた偉大な「政治家」の姿を描いていた。
そこには、“リンカーン”という固有名詞に対して世界中の人々がイメージするであろう聖人君子的な人物像は無く、時には「俺は合衆国大統領だ!言う通りにしろ!」となりふり構わず最大権力を振りかざしてでも、己の信念を貫き通そうとするエイブラハム・リンカーンという等身大の男の姿があった。
米国史に明るくないので、この映画で描かれる世界の時代背景に具体的なイメージが付随しないのは残念に思った。
せめて南北戦争の流れくらいは把握しておけば、もっとこの映画に登場する人物たちの一挙手一言動に感動できたかもしれない。
ただそうでもなくても、この映画に映し出されるリンカーンという偉大な政治家が成した功績の重さと、彼の人間的な感情は充分過ぎる程に伝わってきた。
監督と主演俳優の功績はもちろん大きい。
特に主演のダニエル・デイ=ルイスの演技は、声や表情は勿論、骨格や陰影に至るまで完全にエイブラハム・リンカーンという人間を演じ切っていたと思う。
そして、この映画に携わった誰一人として手を抜いていないであろうことが、びしびしと伝わってくることこそが最も素晴らしいことだと思う。
先だって観た「ジャンゴ 繋がれざる者」に続き、米国史における奴隷制度の実情を垣間見て、気持ちが悪いくらいの嫌悪感を感じ続けた。
そこに映し出された人間の残虐性は、決して米国に限ったことではなく、世界中の歴史の中で繰り返されてきたことであろうことに、更に虫唾が走る思いになる。
しかし、そう思えるということは、幾分なりとも世界が良い方向へ変わってきていることの証明でもあろう。
どんな時代でも前に向いて進んでいくしか道はない。少しずつ、少しずつ。
「リンカーン Lincoln」
2012年【米】
鑑賞環境:映画館(字幕)
評価:9点
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