慢性的な気疲れからか、一日中偏頭痛がまとわりついた。
ストレスを溜めてもろくなことはないので、仕事を終えてレイトショーを観に行くことした。
公開されたばかりのレオナルド・ディカプリオの最新作「シャッター アイランド」を観ようと思い、
映画館のWebサイトで上映時間を確かめた。そこで愕然とした。
話題の大作なので、どの映画館でも上映はしている。
が、近場の3つの映画館では、揃いも揃って「超吹替版」という一体持って普通のものとどう違うのか分からない吹替版の上映しかしていなかった。
「映画は吹替で観たい」という人を一方的に批判するつもりはないけれど、
個人的な価値観からは、吹替版で外国映画を観るなんてことは、有り得ない。
選択は自由であるべきだと思う。それでしか上映をしないというのは、どういう神経をしているのか理解に苦しむ。
遠い隣町の映画館で唯一字幕版での上映しているのを見つけ、時間に追われながら車を走らせた。
映画を観終わって、吹替版でしか上映していなかった映画館に対しての憤りは、幾重にも倍増した。
映画が、最高に素晴らしかったからだ。
主演のレオナルド・ディカプリオのパフォーマンスが凄い。
仕方なく吹替版を観て、その彼の台詞のトーンや息づかいを感じることが出来なかったらと思うと、ゾッとしてならない。
このところ映画の内容が分かりやすくするということで、公開時点で吹替版での上映が氾濫している。
それにより来客数が増えてきていることも事実であり、そのこと自体に一概に否定は出来ないのかもしれない。
ただ本当にそれでいいのかと思う。
俳優たちの「声」を無視して、外部から別物の音声を差し込むということは、映画という表現に対する冒涜に思えてならない。
ディカプリオをはじめ、素晴らしい俳優たちが、どういう声をしているのか認識できないなんてことになれば、これほどの「不幸」はない。
「文化」に対する美意識を忘れてほしくない。
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