仕事終わり、わざわざ隣街の遠い映画館まで車を走らせて、この映画を観に行った。
心労による偏頭痛がじっとりとまとわりつく土曜日のレイトショー。
なぜそんな苦労をしなければならなかったか。
理由は、近場の3つの映画館では揃って「超吹替版」という得体の知れないバージョンしか上映をしていなかったからだ。
吹替版を一方的に非難するつもりはないのだが、個人的には、言語が分からないのであれば外国映画はやはり字幕で観るべきだと思う。
字幕として翻訳することで誤訳や微妙なニュアンスの相違が生じていることは知っている。
スクリーン上に表現されている様々な要素を見逃さないためには、字幕を追うことはマイナス要因だとは思う。
ただし、だからと言って「吹替版を観た方が良い」ということにはならない。
俳優本人が発する台詞のトーンや息づかい、そういうものを無視して、作り手とまったく関係のない者の意思で、別物の「音」を差し込むということは、「映画」という表現に対する一種の冒涜だとさえ思ってしまう。
映画を観終わり、結論として感じたことは、吹替版しか上映していなかった近場の3つの映画館に対する多大な“嫌悪感”だった。この映画を吹替版で観ていたらと思うと、ゾッとしてならない。
非常にまわりくどくなってしまったが、マーティン・スコセッシとレオナルド・ディカプリオが“四度”タッグを組んだこの作品は、絶対的に凄い映画である。
まず言っておかなければならないことは、映画における「騙し」と「謎」をこれでもかと煽り立てた国内プロモーションが、とても愚かで、作品に対する圧倒的なマイナス要素を含んだ試みだったということだ。なぜあのような稚拙なプロモーションを展開してしまうのか、理解に苦しむ。
「謎解きに参加せよ」などという安直な煽りは、この映画に対する侮辱である。
この映画の絶対的な価値は、「謎」そのものに対する安直な衝撃ではなく、本当に優れた映画監督と映画俳優が緻密に創り上げた、本質的な“ミステリアス”に溢れた映画世界の「上質さ」だと思う。
いかにもおどろおどろしい孤島の犯罪者専用精神病院で、主人公がミステリーの渦に呑み込まれていく。
そこに用意されたプロットは、むしろ予定調和とも言えるほど王道的な「衝撃」である。
その必然性に真っ向から臨み、単なる驚きを超えた緊迫感を生み出す。
それは、本当に「映画」を知り尽くした者たちのみが成せる業だと思う。
スコセッシが描き出す陽炎のような映画世界。そこに圧倒的な存在感で息づくディカプリオ。
光の屈折、音の響き、漂ってくる匂い、その「空気」の動きこそ、この映画で感じるべきことだと思った。
そしてそれは、「吹替版」ではやはり味わえないことだ。
レオナルド・ディカプリオが本当に凄い。ここ数年の出演作でのパフォーマンスで、その演者としての実力とスター性は、既にナンバーワンクラスであったが、彼は今作で確実に「名優」の域まで達したと思う。
映画に対する安直な分かりやすさを求めて、吹替が氾濫することで、名優たちの声質、息づかいを認識できないなんてことになれば、映画を愛する者にとって、それ以上の不幸はない。
大画面に映し出される音と光、更には匂いや触感までを観る者に与える洗練され尽くした映画世界。
配給会社が安直に煽った“オチ”を経て、崇高なラストシーンに辿り着いた時、そこにあったものは、映画を観るという行為における「満足」を超えた「至福」であった。
「シャッター アイランド SHUTTER ISLAND」
2009年【米】
鑑賞環境:映画館
評価:10点
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