“grandmother”という英単語が昔から結構好きだ。
この呼称を持つ人に対する尊敬と敬愛を如実に表しているし、言葉の持つ響きがとても良い。
覚えた時から、この英単語を聞くと、いつも父方の祖母が頭の中にイメージされた。
祖母なのだから、意味はそのままで、当たり前と言えばそうなのだけれど、
僕にとっても、親類一同にとっても、“grandmother”という名詞が相応しい人だと思っていた。
それは、この横文字が似合う人ということではなくて、
存在そのものがまさに“grandmother”だということだったと思う。
その祖母が一週間前に亡くなった。
もちろん悲しかった。
けれど、同時に感謝や安堵、そしてそれに伴う幸福感のようなものも覚えた。
不謹慎にも聞こえるかもしれないけれど、
自分自身が歳をとり、新しい生命を育んでいる中での肉親の死には、
単なる悲哀だけではない多様な感情が幾重にも重なるものなのだなということを、
久しくなかった肉親の死に触れ、知った。
「生命」は生まれ、死にゆく。
それが自然の摂理だと簡単に割り切れるわけはないが、
いつの間にか自分自身が三十路を超え、
いつの間にか子を授かり育てている。
その様を少し客観的に見られたとき、
生の喜びは、死の悲しみに裏打ちされて初めて生じるもので、
それらはどこまでいっても“一対”であるということを改めて思う。
火葬場で焼かれ僅かな骨となった祖母の姿を、愛娘を抱いて目の当たりにした。
箸で拾い上げる骨の欠片は、重さを感じないくらいに軽い。
何度経験してもショックな場面だけれど、
意外にも、それまでの悲しみが薄れていくのを感じた。
目の前で軽い骨になっている人の存在があったからこそ、
それを拾い上げる僕自身の存在があるし、
その僕の腕の中で重みを発している愛娘の存在がある。
そのすべてが自然の摂理ならば、
生も死もすべてひっくるめて、やはり幸せなことだろう。


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