いつもと同じ負荷に設定した40分間の有酸素運動マシンのペダルが、二日続けてとても重かった。
疲労がたまっているらしい。が、汗だくになりながら何とかこなした。
有酸素運動の最中に「天空の城ラピュタ」のテレビ放映を垣間見て、
帰宅後、「バルス!」以降のラストシーンを観た。
部分部分を観ても、相変わらず総てのシーンが素晴らしい。
この無駄と粗の無さは何だろうと改めて思った。
その後のニュースで、浅田真央選手の母親が死去したという報を聞いた。
「危篤」を受け、急遽GPファイナルを欠場するという報を聞いて残念に思ったが、更に残念に思う。
先日、読んだ小説で、「死」は特別ではなく、だからこそすべての「死」が平等だという表現があった。
その通りだろうと思う。
身近な人の死や、関心が高い人の死は、「特別」に映り、時に理不尽にも思ってしまうけれど、
結局は、すべての「死」は平等で、「自然」なことなのだろう。
だからと言って、すべての場合において、“それ”をすんなりと受け入れられるなんてことは当然ないのだけれど。
振り返ると、何だか今年は特に「死」に触れた一年だったような気がする。
「3・11」のあまりに大きな悲しみはもちろんだけれど、
とりわけ自分にとって馴染み深い方々が多く逝ってしまった。
毎週観ていた「アタック25」でお馴染みだった児玉清さん、
僕にとっては「ゴジラVSビオランテ」のヒロイン役が印象的だった田中好子さん、
「刑事コロンボ」のピーター・フォークさん、
一番好きな俳優だと言っても過言ではなかった原田芳雄さん、
阪神在籍時のピッチングに熱くなった伊良部秀輝さん、
日本サッカー史上屈指の“現役”DFだった松田直樹さん、
そして、愛犬のピノコ……。
“天国”、“死神”、“輪廻転生”……、人間が「死」を受け入れるために作り出した様々な言葉はあるけれど、
どう取り繕っても、やっぱり悲しいし、辛い。
でも、悲しさや辛さに打ちのめされつつ、
先に逝ってしまった人たちと彼らの人生を崇め敬うからこそ、
残された人間はその先を生きていけるのだろうとも思う。
シータとパズーが唱えた「バルス!」は“滅びの呪文”だけれど、
同時に、すべてを解き放ち、新たな空へ飛び立つための言葉だったようにも思う。
同じように、「死」は終着点であると同時に、
当人と、その周囲の人々と、影響を与えた人々にとっての新たな始まりなんだなと思う。
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