“女”にとって、“男”は、ほんとうに、純粋に、暗く空いた心の隙間を埋めるためだけの、“詰め物”だったのかもしれない。
精神が歪んでいるわけでも、感情が欠如しているわけでもない。
むしろ逆だ。
あまりに真っすぐに、あまりに直情的に、自分に“無いもの”を求めた結果だ。
不条理であり、おぞましさすら感じる。
しかし、その激情を表す言葉はやはり「愛」以外にはあり得ない。
「あれは私の全部だ!」と、“女”は叫ぶ。
もう、この咆哮にすべてが表れている。
文字通りの死の淵から、“空っぽ”の状態で生き延びた少女は、「必然的」に現れた“男”で、その空洞を埋め尽くしていったのだろう。
“女”が“男”で満たされるのにそれほど時間はかからず、同様に“男”も“女”で満たされていく。
「秘密」が誰に暴かれようが暴かれまいが、それを誰に非難されようが非難されまいが、最初から最後まで彼らの世界には、二人しか居なかったのだと思える。
何かがほんの少し違っていれば、辿り着いた場所はもう少しマシだったのではないか……と、僕自身を含めて、他人は思う。
しかし、そんな他人の思考はあまりに無意味であることに気づく。
“男”の台詞に表れているように、彼らがほんとうに望んでいたことと、彼らが辿った運命は、少しずつ確実に乖離していったのかもしれない。
それでも、彼らはああやって互いの命をつないでいくしかなかったし、あの先もああやって生きていくのだろう。
賛否は激しかろう。僕自身、受け入れきれない部分は大いにある。
しかし、主演の二人の映画俳優が映画世界を圧倒的に支配し、拒絶感すら強引にこじ開けてくるようだった。
“女”を演じた二階堂ふみは、この若さにして彼女の映画女優としてのキャリアを決定づけるような表現を見せつけた。
そしてそれに呼応し引き出したのは“男”を演じた浅野忠信。長らく彼の主演映画を観続けているが、俳優として駆け出しの頃にほとばしっていた危うく禍々しい魅力が、完全に戻ってきている。
勿論それに俳優、更には人間として濃密な経験値が加わり、その存在感は益々唯一無二のものになっていた。
映画界において、この二人の共演は遅かれ早かれ必然的だったとは思うが、この映画で実際に紡ぎ出されたものは「奇跡」と呼ぶに相応しい。
ドヴォルザークのメロディーが夕刻を告げるチャイムとして流れる中、“女”が数日ぶりに帰ってきた“男”を迎える。
映画の展開的には、まだ物語が劇的に転じる前の何気ないシーンとして映し出されているが、おそらくはこの映画の中で最も重要なシーンだっと思う。
誰も知らない二人だけの世界。孤立感と、それ故の多幸感。
そして彼らの背景に染み渡っているような不穏さと背徳感。
でも、たまらなく美しいこのシーンを忘れることはできない。
「私の男」
2013年【日】
鑑賞環境:映画館
評価:10点
コメント
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