「マン・オブ・スティール」<5点>

2013☆Brand new Movies

 

プロローグ、“父親”にキャスティングされたアカデミー賞俳優が、ドラゴン(のような生物)にまたがり、過剰なまでのスペクタクルを繰り広げるワンシーンをIMAXの画面いっぱいに目の当たりにした時点で、“一抹の不安”は生じていた。
以降、「あれ?なんだかノリキレナイ……?」という感覚が確実に蓄積し、結局そのままエンドロールを迎えてしまった。

ザック・スナイダーが描き出したビジュアルは流石に凝りに凝られている。
更には、クリストファー・ノーランが製作に加わり、タイトルからもストーリーテリングからも“スーパーマン”という固有名詞を極力排した新しい“元祖スーパーヒーロー”の世界観に対して、期待感と、それに先行するかのように高揚感が溢れた。

“ノリキレナイ”この映画に足り得なかったことは単純。それはずばり「娯楽性」だと思う。

「ウォッチマン」のザック・スナイダーと、「ダークナイト」のクリストファー・ノーランが組んで生み出されたアメコミヒーロー映画において、分かりやすい娯楽性が強調されないであろうことは、容易に予見できた。
それに、焼き直した「バットマン」同様に、観客としてもダークで新しい世界観を期待した部分は大いにある。

実際、映画は、主人公の「出自」と生まれ持った「能力」、そして背負った「運命」を軸にして、「どう生きるべきか?」ということに延々と焦点を当て続ける。
引き込まれる要素は多分にあったし、概ね製作者の意図通りの映画に仕上がっているのだろうとも思える。

しかし、圧倒的に物足りない。
結論として辿り着いたことは、他のヒーローならいざ知らず、「スーパーマン」にだけは突き抜けた「娯楽性」が必要不可欠だったのではないかということだ。

バットマンをはじめその他の多くのアメコミヒーローが、そもそもは“地球人”であり、生身の人間としての側面から苦悩する余地が多分にあることに対して、スーパーマンはそもそもが“宇宙人”であり、絶対的能力がデフォルトである。
そのキャラクター性において、もはや“ベタ”にもなりつつあるヒーローが自身の“在り方”について悩む姿そのものが、何だか余計に思えてくる。

過去作に対して、まったく異なる設定やストーリー展開を見せるのであれば、センシティブでリアリティ重視な表現に対してもう少し納得が出来たかもしれない。
しかし、何だか込み入った描き方はしているが、根本的な描写は、かつてクリストファー・リーブが演じた「スーパーマン(1978)」と結局のところ同じであり、それであれば過剰な現実主義は、ただまどろこしく感じるばかりである。
娯楽映画としての展開力の稚拙さ、それに伴う絶対的なエモーションの欠如。それが今作の最大の敗因だと思う。

ヒロインをはじめとする市井の人々が絶体絶命のピンチに陥る。
そこに弾丸よりも速く強いスーパーヒーローが颯爽と現れて問答無用に彼らを助ける。
「スーパーマン」は、彼だけは、それでいいのだと思った。

最後にもう一つだけ。
冒頭から大立ち回りをするスーパーマンの実父役のラッセル・クロウだが、ビッグゲスト的な配役かと思いきや、クライマックス近くまでしつこく登場してくる。
こんなに露出が多いのなら、むしろ、ラッセル・クロウを悪役に配した方が良かったように思う。
ゾッド将軍を演じたマイケル・シャノンは印象的な雰囲気を出していたとは思うが、ボスキャラとしてはどうしても存在感の弱さを感じた。

久々に見たケビン・コスナーが育ての親役を好演していただけに、わざわざ新旧スター俳優同士で“父性対決”を見せる必要はなかったと思う。

 

「マン・オブ・スティール Man of Steel」
2013年【米】
鑑賞環境:映画館(IMAX3D・字幕)
評価:5点

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