“クローン”という言葉が、小説や映画で取り上げられ、
ついには現実社会のトピックスとして耳にするようになって久しい。
もはや大概の一般人が、その「技術」の大体の仕組みはイメージ出来るくらいに、浸透していると思う。
同時に、それが「禁断の領域」であることも多くの人が理解している。
でも、明確にその技術を“禁ずる”動きはあまり見られない。
それは、“クローン”によってもたらされる「成果」が、
同時にもたらされるだろう人間にとって破滅的な「代償」の存在を見失わせるほど、
悪魔的な魅力に溢れているからだろうと思う。
スポーツクラブから帰宅した金曜日の深夜、
クライマックスを残していた東野圭吾の「分身」という小説を最後まで読み終えて、
掴みかけた最先端の技術に翻弄され、破滅に突き進もうとする人間の愚かさとおぞましさ、
そして、それらと共存する生命の崇高さを感じた。
禁断の最新技術に溺れる人間の様を愚かしく思うと同時に、
果たしてそれを真正面から否定出来る者などいるのかと懐疑的になった。
新しく、不確かなものを否定することは容易だ。
しかし、すでに僕たちは、有史以来様々な「最新技術」によって生かされている。
あらゆるものを踏み越えてこなければ、今の世界はあり得なかったとも思う。
小説のラストで、“クローン”として生み出された二人の主人公は、新たな道を前にレモンをかじる。
それはまさに現代における“禁断の果実”の象徴のように思えた。
“禁断の果実”を口にしたアダムとイブを、この地球上に生きるすべての人間は否定出来ない。
どうあがいても、その先には破滅しかないのかもしれない。
それでも、生命として存在する以上、その道を進むしかない。
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分身 (集英社文庫) (1996/09/20) 東野 圭吾 |
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