「華麗なるギャツビー(2013)」<9点>

2013☆Brand new Movies

 

野望、欲望、羨望……言い方は様々だけれど、人間は誰しも大なり小なりの「望み」を抱えて生きている。
「望み」がない人間なんているわけがない。もしそんな人がいたならば、それはもはや人間ではないとすら思う。
そうであるならば、人間として何かを望み続けることが「罪」であるわけがない。
誰も“彼”のことを非難も否定でもできない。できるわけがない。

レイトショーでこの映画を見終えた夜、寝床でそんなことをつらつらと考えていると、なかなか眠ることができなかった。

この映画は、世界中の誰よりも、自分が抱いた「望み」を追い求め、そのすべてを実現しかけ、つい果てた男の物語だと思う。
何も無かった男にとって、己の望みこそがすべてであり、破天荒に、盲目的に、ひたすらにそれを追求することでしか、生きる意味を見出せなかったのだと思う。

「華麗」という言葉がまさに相応しい絢爛豪華に見える人生の中にひた隠されたこの男の本質は、あまりに哀れで、哀しく、だけれどもほんの少し羨ましくも思う。

語り部として立ち回るニック・キャラウェイが言う通り、虚栄と退廃に塗れた“クソ”のような世界において、ジェイ・ギャツビーという男の生き様にこそ唯一無二の「価値」があった。
その生き様は、時に笑ってしまうくらいに無様だけれど、そこにはたった一つの「目的」のために生きた人間の、人間らしい純粋さが満ちていた。
だから、世の中のすべてに馬鹿にされようとも、最後の最後まで「望み」を信じ続けた彼に羨ましさを感じるのだと思う。

ただその一方で、ギャツビー以外の、クソのような世界で生きるクソのような人間たちのことを無下に否定することもできない。

ギャツビーにとって最大にして唯一の「望み」であり「夢」であった“麗しの君”も、結局は卑怯で醜い人間の一人であったわけだけれど、誰が彼女の“選択”を否定出来ようかと僕は思う。

自らの娘の将来を案じて「女の子は美しくて馬鹿なほうがいい」と、彼女は言う。
それは彼女自身が、虚栄の極みの中で生き、それに頼らざるを得ない人間であるということを自覚していることに他ならない。
ある意味では、彼女もまた己の「望み」を貫き通した人間の一人だったのだと思う。

結局、彼女は孤独に果てたギャツビーに一瞥もくれずに去っていく。
非常に冷淡で愚かしく見えるけれど、あの時代、あの環境において、そのスタンスこそが彼女にとっての生き抜く術だったのだとも思える。

この映画に登場する人間たちに、「正しい」生き方をしている者は一人もいない。でもだからと言って、誰が「間違っている」とも言い切ることはできない。
つまりは、どんな状況であっても、他人が誰かの生き方の正誤を判別できるわけがないということだと思う。

愚かな程に美しいこの映画のすべてのシーンがオーバーラップしてくる。
「夢」に対してすべての手筈を整えたジェイ・ギャツビーの満面の笑み、ニック・キャラウェイが抱いた尊敬と羨望の眼差し、愛する人のキスを待つデイジー・ブキャナンの麗しさ……。

誰もがただただ「望み」に対して懸命に生き、結果として大きな大きな“悲哀”が残ったということ。その人間ならではの、儚くも果てしない無情さに感極まった。

最高の演技、最高の音楽、最高の映画世界。もう他に何も要らない。

 

「華麗なるギャツビー(2013) The Great Gatsby」
2013年【米・豪】
鑑賞環境:映画館(2D・字幕)
評価:9点

コメント

  1. フェラガモ 公式 サイト

    「華麗なるギャツビー(2013)」<10点> :: TKL☆スバラシネマ|yaplog!(ヤプログ!)byGMO

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