「眩し過ぎる日は無性に腹が立つ」
今年の大河ドラマ「龍馬伝」最終回、香川照之演じる岩崎弥太郎が言った。
もう2年くらい前になると思うが、2010年の大河ドラマの題材が「坂本龍馬」だということを聞いて、
「今更、龍馬もないんじゃないか」と思った。
三菱財閥を築いた岩崎弥太郎の視点から“実業家”としての坂本龍馬を描くという触れ込みに対しても、正直ピンとこなかった。
「坂本龍馬」は、類い稀なカリスマ性をもってして、近代日本の幕開けを実現して散った“ヒーロー”だという、ある意味でとても抽象的なイメージしか持っていなかったことに気づいた。
そんな思いを携えつつ、一年間、みるみる没頭するようにこの大河ドラマを見続けた。
そうして得た最大の「結論」は、坂本龍馬を抽象的なヒーローとして捉えていた頃からすると、至極意外なことだった。
その結論とは、
“坂本龍馬は、暗殺されて当然の人物だった”
ということだ。
混迷する世の中を憂い、近代化を推し進め、文字通り“日本の夜明け”を実現した大人物を、暗殺するとは何事だ。
と、ずうっと思っていた。
がしかし、国の発展のためだろうがなんだろうが、世の中をひっくり返すということは、
同時に、沢山の人間の存在と価値観を真っ向から否定し、脅かすことであり、
そこに“憎しみ”が生まれることは、当然だったろうと今は思う。
詰まるところ、冒頭の台詞に尽きる。
あまりに突然の突き刺すような日の光に対し、多くの人間は戸惑い、とにかく腹が立ったということなのだろう。
もちろん坂本龍馬は、そういった自らに対する弊害もすべて理解した上で、自分の使命を通したのだと思う。
怒りを買おうが、憎まれようが、一度上った日はすぐには沈まず、照り続けるということを知っていたのだと思う。
坂本龍馬の成した功績が、そのまま現在の日本の発展に繋がったわけでは決してないし、
この大河ドラマで描かれたことが「事実」だなんてことは思っていない。
逆に言うと、過ぎ去った歴史に対して、「これが間違いの無い事実だ」なんてことは、すべての文献、小説、他のどの媒体においても言い切れるものではないと思っている。
ただ僕は今回、「龍馬伝」というドラマで、「坂本龍馬」という人物の人生を追った。
その上の価値観において、
彼が迎えたあの朝の光が、今現在に繋がる「日本」を照らしているということは、揺るがない「史実」である。
映画やドラマ、小説、漫画、その他様々な表現方法で描かれた「歴史」を楽しむということは、
「事実」を知るということではなく、それぞれの価値観において、その人物や出来事に思いを馳せるということだと思う。
それが歴史に対する「限界」だとも思う。
どんな文献や資料が出てこようとも、すべての歴史がその時々に生きた人間たちの様々な“価値観”と“思い”によって形作られている以上、その「限界」は揺るがない。
ということを、焼酎を3杯飲んでほろ酔い気味の中で、思い連ねた。
そんな11月最後の日曜の夜。
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