コンサート

ボクは今年、もう26歳になってしまう。が、いまだ歌手の「コンサート」というものに行ったことがなかった。

悔やまれるのは、東京に住んでいた頃、JUDY AND MARYの解散コンサートのチケットを新宿まで朝一で買いに並び、目の前でソールドアウトとなってしまったこと。

その後も、結局コンサートに行くという機会を得られないまま今日になったわけだが、ついに初コンサートに参じることとなった。

それは大好きな“くるり”のコンサート……ではなく、某ホテルで催された「鳥羽一郎サマーコンサート」だった……。

その某ホテルとの取引の関係上“付き合い”でチケットを2枚買った。

当然ながら、鳥羽一郎に興味はない。が、一枚7,000円もするチケットを買うことにそれほど大きな抵抗はなかった。

「父と一緒に行こう」と思ったからだ。

先月の父の日には何もしていないし、たまにはそういうのも良いかと思った。

そんなわけで、日曜の夜、父と二人で”コンサート”へ出かけた。

世の多くの男はそうだと思うが、「父親」と「息子」という男同士というものは、なかなか間が持たないものだ。

別に仲が悪いとか、気が合わないとかそういうことは関係なく、何か母親との間にはない“気恥ずかしさ”みたいなもを意識してしまう。

まあ最近は、自分が大人になってきたからなのか、そういうことも受け止められてきた部分があって、昔ほど過剰な意識はないのだが。

会話と無言を繰り返しつつ、コンサートの開演を迎えた。

いかにもなスモークの中から、いかにもなステージ衣装を着た鳥羽一郎があらわれ、ワンマンショーが始まる。

少し予想はしていのだけれど、いくら興味のない演歌のコンサートでも、やはりライブのエネルギーというものは強い。

ひたすらに「男気」を熱唱する世界が広がっていく。

数曲を歌い終わり、会場のテンションも最高潮になってきた頃だったろうか、ふと横目に涙を拭う父の姿が映った。

ステージ上の鳥羽一郎は、自身の母親を想う歌を歌っていた。

父親の母親(祖母だが)は、現在介護施設と在宅介護を繰り返す日々を送っている。長男としていろいろ思うことはあるのだろう。

父親の涙というものは、息子にとっては結構“特別”だ。

哀しいような、切ないような、何とも言い難い気持ちになる。

でも、今日一緒に来られたことは、とても良かったと思う。

コンサート終了後、ホテルの中の温泉に入った。

父と二人で風呂に入るというのも、もう何年ぶりか分からないほどだった……。

時間というものは、時に残酷に過ぎ去る。

これから、益々、父親と共に過ごす時間というものは、大切になものになると思う。

さて、いつになく長々となってしまった。

これは口外するべきかどうか少し迷ったのだが、これがあくまで「ひとりごと」であり、どんな状態であっても今現在の「自分」をもって発されるものである以上、やはり明記するべきだと思った。

父が、「胃がん」と診断された。

先週半ば、母親から「話がある」と言われ聞かされた時は、正直しばらく何も言葉を発することが出来なかった。

だが、あくまで早期の発見であるということ、胃の全摘出にはなるが手術と一ヶ月の入院で復帰は確実であり、完治の可能性は極めて高いということを認識し、落ち込んだところで仕方がないし、意味もないと思い直した。

世の中の誰もが同様だと思うが、子であり、親である以上、誰もが幾度か迎えなければならない局面の一つであり、それを通過することは必然なのだろう。

すべてにおいて楽天的になることは不可能だが、すべてにおいて悲観的になる必要もなく、今はただ父の快復と、そのために彼を自分の体以外のことで不安にさせないことを考えるしかない。

まあそんなわけで、いろいろと思った通りにはいかないが、絶対的に考えなければならないことがあると、余計なことを考える暇はなく、シンプルに生きられる。

明日から父は入院生活に入り、今週中に手術を行う予定だ。

ボクは、自分がやれることを、ただひたすらやるしかない。

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