前夜、十数年ぶりに1972年公開の「エイリアン」第一作目を鑑賞し直した。
同作の“前日譚”をリドリー・スコット監督自らが新たに描いたこの最新作を観るにあたり、見直しておくことは必須だろうと思われた。
改めて「エイリアン」を見直してみて、30年以上前の作品とは思えない映像世界のスタイリッシュさと何度観ても揺らがない恐怖感におののくと共に、秘められた「伏線」に気づき、よくもまあ30年間もその伏線の回収を放っておいたなと思えた。
そうして満を持しての最新作の鑑賞。
結論から言うと、30年前の伏線の解明は成されている。
しかし、更に新たな謎が幾つも生み出され、それらが放り出されたまま映画は終わってしまった。
全編通して荘厳な映像世界に感嘆する一方で、この映画そのものの完成度という面においては、大巨匠の神通力の低下を疑わざるを得なかったというのが正直なところだ。
製作上において、何か致命的な失敗があったとしか思えないほどに、映画を振り返ってみると、登場人物の言動からあらゆる設定に至るまで説明が成されていない部分があまりに多く、「穴」だらけに見える。
観賞後しばらくは不満と満足の狭間で困惑してしまった。
しかし、「続編」が既に決定しているとの情報を得て、その困惑はすぐに一転する。
詰まるところ、部分的な満足感も全体的な不満感もすべては一介のCMクリエーターから現在の地位までのし上がった巨匠の強かさによるものなのだろう。
プロモーションにおいて、“エイリアン”というキーワードを敢えて極力避けながら、歴史的大傑作の“パート0”を新たに生み出すことで、「謎の解明」という新たな「謎」を描き出す。
そうすることで、過去作への注目を効果的に高め、更なる「続編」への期待感を増幅させる。
ハリウッドの第一線を年齢と逆行するように精力的に突っ走る“現役巨匠”の目論見はまさにそういうことだったのではなかろうか。
当然、「続編」の公開前には、この監督の“得意技”とも言える「ディレクターズカット版」もリリースされることだろう。この映画のあからさまな穴あき具合から、未公開の映像が山のようにあることは容易に想像できる。
ただしかし、この映画単品として物足りなさが残ることは紛れもない事実。
誰もがアンドロイド役に使いたいであろうマイケル・ファスベンダーをいの一番にその役に起用した巧さと、シャーリーズ・セロンのキャラクターがあまりに勿体ないままギャクのような最期を迎えてしまうというチープさが隣り合わせで共存している。
人間描写一つとってもそういう無視できないアンバランスさが蔓延している。
映画としての完成度は決して高くない。でも映画世界に対しての興味と期待感は更に深まる。
今回は取り敢えず巨匠の衰えない強かさを感じつつ、ひたすらに続編を待つとしよう。
「プロメテウス PROMETHEUS」
2012年【米】
鑑賞環境:映画館(通常版・字幕)
評価:7点
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