3人の子供を死に追いやった福岡県の飲酒運転追突事故は、本当にやりきれない思いになる。
事故現場となった福岡市の「海の中道大橋」は僕も通ったことがある。
夏の天気の良い日に通ると、両端を海に囲まれた真っ直ぐな道がとても爽快で解放的なとても良いところである。
事故が起きた時間は夜半なので、その時は視界的な爽快感はなかっただろうが、「カブトムシを捕りにいった」という往路では、とても大きな夏の幸福感を家族全員で感じていたに違いない。
その帰路に起こった無残すぎる出来事。
生き残った両親の立場を想像するだけで、押し潰されそうになる。
ただそれは想像に過ぎず、現実の当人たちの思いは、他人の想像すら許さないだろう。
なぜこういうことが起こるのか。あまりに理不尽過ぎるのではないか。
運命?因果応報?どんな言葉をもってしても、納得がいかない。
最大の怒りは、飲酒運転により事故を起こした男に向けられるべきだろう。
が、しかし、擁護するつもりは毛頭無いが、その男だって「殺人に限りなく近い事故」を根本的な部分で起こしたかったわけでは当然ないだろう。
何が言いたいかというと、そんなたった一人の男のたった一つ「愚行」によって、ほんの数分前まで絶対的な幸福感に包まれていた子供たちが、あっけなく生命を無くしてしまったという“現実”の理不尽さと、それに伴って生まれる行き場の無い大きすぎる怒りと悲しみの“存在理由”について、「理解」することが出来ないのだ。
「人が死ぬ」ということに対して、「理由」やそれによる「納得」を求めること自体、本当は無意味なのかもしれない。
そんなこと考えるほどにキリが無く、ただただ真っ暗な深淵の中へ放り込まれるだけだ。
でも、生きている以上、ふいの出来事に対して、止め処なく考えてしまうこと。それこそ人間の性だろう。
“考えてもしかたがないこと”を、ひたすらに考えられるように人間は作られている。
そうならば、「無意味」と分かっていても、行き場のない「思案」を試みてみることも、それはそれで必要なのだろう。
結果、何かを見つける必要はない。そんな“何か”なんてものは無い。
そもそも「無意味」なことだからだ。
でも、その「無意味」が、人間の特性であるなら、僕は「無意味」なことを「無意味」なままに追い求めてみるのもいいと思う。
他の生物から見れば、いよいよ「ヒマなこと」だろう。
ただ、その「ヒマ」がなければ、この理不尽な世界で僕は人間として生きられない。
Unknown
考えることに無意味なんてことはないと思いたい。
考えても仕方ないことは確かに存在すると思う。けれど、考える行為をやめてしまえば、人間はいろんな意味で鍛えられないでしょう。
(ものすごく大袈裟ですが、)考える人の他にも考える人の回りにも人がいるということ。
考える人(想いを巡らしている人)に回りの人が気付かぬならば、考えることは本当に無意味。
動物や虫たちがどうであれ、人間には感情があるのだら、それで支え合わなければ生きていけないと思う。
今回の事件は本当に痛ましい事故であるけれど、両親を支えられるのはニュースを見た遠くの人間より、回りの人の想いによる支えではないでしょうか?
(やり場のない気持ちに関してのコメントです。)
コメント