12年前か13年前、高校の文化祭で12人の友人たちと体育館のステージの上で歌って踊った。
当時流行っていたユニットの振り付けをコピーしたカラオケに毛が生えたようなパフォーマンスだった。
ふいにその時の写真を見てみると、思わず苦笑いをしてしまうけれど、どうしたって忘れられるわけがない思い出だ。
あの過ぎ去った時間は、やはり自分にとって大切な“輝き”なのだと思う。
登場する“群馬”の田舎の女子ラッパーグループ“B-hack”。
彼女のたちが追い求めたかつて自分たちが持っていた“輝き”、その根底にあるものは僕自身が大切に抱えているものと同じだった。
そういうものを描いているこの映画を否定することなんて到底出来ないし、彼女たちのことを好きにならないわけがなかった。
北関東の地方都市で人生そのものをくすぶりつづけている若者の青春群像を描いた「SR サイタマノラッパー」の第二弾である今作。
ストーリーのプロット自体は殆ど同じで、主人公の性別を男から女に変えただけの“二番煎じ”と言えなくはない。
しかし、僕はこの続編に一作目には無かった抑えきれないエモーションを感じずにはいられなかった。
この映画で描かれた主人公たちの過ぎ去った“輝き”と自分自身のそれとがオーバーラップしたことは、その大きな要因だろう。
けれど、決してそれだけではなかったと思う。
主人公が男から女に変わったことによって、映し出される問題意識は、前作に比べて非常に辛辣でリアルなっている。
大人になりきれない男たちがいつまでも夢を追い求め、うじうじと葛藤する様を描き出した前作(褒めている)に対して、今作の“彼女たち”はあくまで自らが置かれている立場と、これからも進んでいかなければならない道筋を見据えた上で、自分たちがかつて持ち得た“輝き”を模索する。
借金返済、失恋、堕胎、傷心、喪失……20代後半の彼女たちが抱える問題は様々で、この映画の中でそれらの問題が総て解決されるわけではない。
むしろ、殆どの問題を丸々それぞれが抱えたまま、映画は幕を閉じる。
しかし、少なくとも彼女たちは、如何なる時も自分たちが“何か”を決断し、実行しなければ、この先を生きていくことが出来ないということをよく知っている。
そのそれぞれの姿は、決して美しくも格好良くもないけれど、根本的に幼稚な「男」に対して圧倒的に“オトナ”で、故にとても凛々しく見えた。
その一方で、「女子」としての“ほころび”だらけの存在感が、痛々しくもとても愛らしく映し出される。
そして映画が展開するにつれ徐々に、ある種の“アイドル性”をこの女子ラッパーグループ“B-hack”に感じるようになる。
それは彼女たちが抱える問題の切実なリアル感とは相反するもので、その現実と非現実の絶妙なバランスが、愛さずにはいられないエンターテイメントに昇華していく。
映し出される人間描写は非常に断片的だけれど、何気ない台詞や表情の裏側に、登場人物それぞれが並行して展開しているだろうドラマ性が垣間見えてくる。
当たり前のことだが、この映画の中で描かれている以外にも彼女たちの人生模様はあって、その一コマ一コマにドラマがあったことだろうということが、次々にイメージされる。
主人公たちが出会いグループを組むに至った過程や、彼女たちの家族の人間模様までもが、何の説明も無い描写の中で自然に表れているように思えた。
自主制作映画の環境らしく、ほころびは非常に多く、決して完璧な映画ではない。故に鑑賞直後の評価は“充分満足”した上で8点とした。
しかし、気がつくと「シュッ、シュッ、シュッ~♪」と口ずさみ、YouTubeで「B-hack」のPVを繰り返し観ていた。
そして、午後の気怠い時間に気怠い感じでこの映画を観てしまったことに後悔し、同じ日の深夜すぐに、焼酎の3杯目を飲みながら二度目の鑑賞に至った。
「ああ、これはやはり“特別”だ」と自ら思い知り、点数をつけ直した。
エンドロール、主人公はリリック書き直した曲をヘッドフォンで聞きながら、母校をはさむ川沿いを歩いていく。
その姿には、かつて確かにあった“輝き”を懐かしみつつも、経てきた時間の距離を認め、“今の自分”を認める強さを感じた。
“ハートのロイヤルストレートフラッシュ”が出揃うハズがないことを彼女たちはとうに知っている。
でもだからと言って立ち止まっていい理由にはならないし、立ち止まってなどいられない。
本編のラストカットに映し出されるままに、傷つき、小さく輝き、彼女たちは“何でもない道”を少し胸を張って歩いていく。
「SR サイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム」
2010年【日】
鑑賞環境:DVD
評価:10点
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