キャプテンの拳がアイアンマンを叩く、アイアンマンの拳もキャプテンを叩く。
悲愴感しかない絶え間ない“殴り合い”を目の当たりにして、ただただ心が痛かった。
愛するヒーロー同士が傷つけ合っているという悲しさもさることながら、この「正義」と「正義」のぶつかり合いの根底にあるものが悲しい報復の螺旋であることが、現実世界の混沌そのものを表しているようで、殊更に悲しく、この世界に生きる者としての虚無感を感じにいられなかった。
マーベル映画のヒーローたちは、「悪」と戦い続けてきた。「悪」を叩き、打ち勝つことが、彼らが司る「正義」の存在意義だった。
しかし、この映画に限っては、明確な「悪」は存在しない。真に憎むべき悪への矛先が見当たらなくなり、ヒーローたちは揺らぎ、対立する。
動揺するヒーローたちの姿は、自国の正義を主張し、ぶつかり合い、傷つけ合い、混迷を突き進むこの世界そのものではないか。
ついに彼らは、相容れぬまま袂を分かつ。
己に対する無力感と復讐心に苛まれ続けるアイアンマンは、キャプテンの象徴である「盾」を奪った。
憧れのヒーローが、この愚かな世界と同様に怒りと悲しみに屈して膝をつく様には、失望と絶望が渦巻く。
この重く、悲しいストーリー展開の中で、マーベル映画らしさを保ってくれたのは、頼もしい“新人”二人。
“アリ男”の“大”活躍と、“クモ男”の軽妙なティーン節によって、映画ファンがいろいろな意味で救われたことは間違いない。
両者の存在感が光った空港での“大乱闘シーン”は、「馬鹿馬鹿しい」と言われればそれまでだけれど、諸手を上げて楽しかったのだから何の問題もない。
えげつないまでに痛々しいストーリーテリングを描きながらも、決してスーパーヒーロー映画そのものの“楽しさ”を忘れていないのがマーベルのエライところだ。(そういう部分で“DC”は大きく溝を開けられている‥‥)
スティーヴ・ロジャースも、トニー・スタークも、スーパーヒーローである前に一人の人間である。道を見誤り失墜することもそりゃあろう。
でも、失意からの「復活」こそが、ヒーロー映画の醍醐味でもある。この世界が抱える混沌の答えを彼らは見出してくれるはずである。
きっとその時には、再び“スターク”から“スティーヴ”へ「盾」が手渡されることだろう。
心の痛みは残る。この痛みを抱え続けて、ただひたすらに“彼ら”が率いるチームの帰りを待とう。
「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ CAPTAIN AMERICA: CIVIL WAR」
2016年【米】
鑑賞環境:映画館(字幕・IMAX3D)
評価:8点
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